2008年02月18日

京極夏彦『嗤う伊右衛門』は恋愛小説か?

京極夏彦による小説『嗤う伊右衛門』は恋愛小説なのかもしれない。

しかし、巷間に流布する所謂恋愛の概念から逸脱した、生々しい愛の現実を描いた作品だ。それは愛かもしれないが、恋ではありえない。それはもはや恋愛という言葉で表現することさえ不適切であるとも思える形態の男女関係であり、狂気といっても過言ではないものである。



二人の関係は、一言では理解しがたいものだ。

忠義なのか、愛情なのか、狂気なのか。

わからない。



だが、己の内奥に訴えかける何かが確かに感じられる。



最後の最後まで、二人はお互いに、理解し合うことがなかった。

お互いはお互いに幻想というフィルターを通して相手の虚像を見て、それとの関係で全てが完結してしまう。

まるでラカンのあの言葉―「性的関係は存在しない」―を思い起こさせるようだ。



二人は、死という虚無の中で漸く結ばれたようにも読める。

然し、天国で結ばれただとかいう考えは斥けなければ成らない。

これは、京極夏彦の作品なのだ。

あの世は存在しない。

最後の最後まで、二人の間には男女関係が存在しないのだ。



故に、これは恋愛小説でありながら、<恋愛>小説ではない。

成る程確かに愛の物語ではあるのだが、二人は決して結ばれず、気持ちさえも通じ合わない。むしろ、お互いはお互いに憎み合っているとさえ思っているのではないか。

だから、これは最広義の意味では恋愛小説なのかもしれないが、些か歪な愛であり、俗に言う恋愛小説とは全く異なるものだ。

しかし、それでもこれは愛のあり方や、人間の生について深く考えさせられるものがある。

「恋って素晴らしいわ〜〜」とポワ〜っとなるのではなく、人生の無常さや、人間の孤独さを考えさせれるのだ。



兎も角も、傑作であることは確かで、もう一度読み返したいと思った作品である。



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3D酔いについて

最近のゲームには3D酔いを起こす人がいます。
この3D酔いは、一人称視点、もしくは後方視点からみるゲームで、右のアナログスティックで視線を操作できるゲームなどで、よく起こることらしいです。
3D酔いは個人的な経験からいって、視点移動を直観的にできるようになると酔わないようになりました。
右を向こうと思ったときに、右、左を向こうと思ったときに左と言う具合に、<意思>と<動き>がダイレクトに繋がってると酔わないような気がします。気のせいかもしれませんが。
だから、MGS3サブやGTA3でX軸反転操作で慣れ、その後箱○のX軸反転できないFPSをやったところ、考えてることに視点の移動が対応せず、めちゃくちゃ酔いましたよ。

車の場合、揺られながら本を読んでも酔わないんですけどね、自分は。あれは三半規管がいかれてるせいなのか、それとも活字を追うことになれているが故に車の揺れを無意識のうちに感知しているのか、どうなのでしょうか。

http://www.adaptive-techs.com/~bluebonnet/k/z-karada.html#kurumayoi

に酔いのメカニズムが載ってますが、「目から入ってくる情報と、三半規管が得た情報」が矛盾すると酔うらしいですね。

この原理を転用すると、3Dゲームに酔う場合は、恐らくヴァーチャルな映像から視覚情報として訪れる空間の移動や変化と、物理的空間において三半規管が得ている情報とが矛盾し、その結果として、酔う。
だからゲームに慣れたり、意思とゲームの動きがダイレクトに対応したりして、物理的身体の存在が忘却されるに至ると、酔わなくなるのかもしれません。
その場合、三半規管が得る情報はどうなってるんでねしょうね。相変わらず情報としては訪れているはずですが、それが意識に現前しなくなるのでしょうか。こういったそこに情報があるのにもかかわらず、意識されないということはよくあることです。例えば、『姑獲鳥の夏』という小説で、関口巽は見えるべき物が視えないという事態に遭遇していますが、あれの場合は視覚に情報として訪れているはずの情報が意識に現前しなかったわけです。そこに情報としてあるはずのものが、意識されないのです。また、ぼくらが部屋で本などを読んでいるとき、聴覚にはエアコンの音や雨の音などのノイズが訪れているはずですが、それらは通常意識されない。聞こえているはずなのに、聴こえない。つまりは、そこに聴覚情報があるはずなのに、意識されないのです。
ゲームの体験においても、そのゲームに慣れた者には、こういったことがおこっているのかもしれません。つまり、三半規管に訪れているはずの情報が脳に作用しないわけです。まあ、あくまで仮説ですが。

そういえば、最近のFPSやTPSは、Y軸反転はできるものの、X軸反転できないものが、多くなってますが、これはひょっとしたら操作系に関して統一した規格を維持することで、酔いを減らそうという意図のもと行われていることなのかもしれません。 
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2008年02月07日

デビルメイクライ4

デビルメイクライ4をクリアした。

やっっぱおもしれえ。

こりゃ、前作を超えたかも



この手のアクションゲームでもやっぱり面白いものとつまらんものがある。



コンボが単調だったり、、だれがやっても同じに見えたり、適度じゃない難易度だったり、上達観などが感じられなかったりすると、つまらない。



某アクションゲームのアクションは単調すぎで、コンボもバリエーションがなく、誰がやっても同じで、まるで爽快感がない。



爽快感はエフェクトだけでは発生してこないようだ。



DMC4の場合、コンボが非常に多様だ。



尚かつ、操作は結構簡単。格ゲーみたいに複雑な操作なしに、次々と色々なコンボを敵にたたき込んでいくことが出来る。それでも結構ハードで、良く死ぬ。でも、やり直すことで、どんどん上達を感じられ、コンボも上手くなり、次はもっと上手にプレイできるようになる。

また、技の発見、コンボの発見もあって、それが楽しい。



「おお!こんな風に繋がるのか!」

「お!これとこれをつなげるとすげえスタイリッシュ!」



とか。



敵の攻撃をよけた直後に攻撃する癖を付けると非常にかっこよく見えるとか、色々発見。

で、次第に「魅せるプレイ」を追究するようになる。

自分のプレイに酔う。



当たり判定の絶妙さとかコンボの多様性とか、さすが格ゲー作ってただけのことはある。



経験値を溜めて技がふえていくのも快感。

早く次の技を使えるようになりたいから、どんどんプレイさせられる。

で、新しい技を覚えたら、それを使いこなせるようになるために、どんどん練習する。

超おすすめ。かなり気持ち良い。






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2008年01月19日

デイヴィッド・リンチと観察者の問題

さて、前回のエントリでは、京極堂シリーズと探偵小説における観察者の問題を取り上げた。

そこでは、探偵は、個別のパースペクティブを超越し、神のごとき視点から世界を俯瞰することで、そこから謎を断裁し、物語を作り出し、そして読者を現実に引き戻すのだという仮説を提起した。おおよそ、探偵小説とはそういった構造を持っていると思われる。

こういった特権的な観察者が存在し、そこから謎が整序される探偵小説に対して、D・リンチの映画では、物語を外から秩序付ける観察者が完全に排除されている。

つまり、リンチの映画では、世界をそこから整序する観察者が存在できないような仕掛けが施されているのである。鑑賞者までもが、映画の登場人物であるかのように、謎の中に被投されたまま、物語の幕が下りるのである。

だから、鑑賞者は、物語が終わったあとでもなお、不思議と謎を解消することが出来ない
という状況に陥るのである。普通、ごく一般的な映画では、鑑賞者は観察者として、映画の外から映画を秩序だった物語として把握することができる。鑑賞者は傍観者なのである。しかし、リンチの映画ではこれが成り立たない。傍観者の視点が成り立たないのだ。映画の外から見れば、虚実は自明であるはずだが、それが不可能になっており、虚も実もわからないという、まさにいち登場人物にとっての視点に内在させられるわけである。

例えば『ロスト・ハイウェイ』は、リンチ自身が「サイコジェニックフーガ」つまり「乖離性同一性障害」の映画だと述べているが、それはこれまでの多重人格映画とは全く異なる奇妙なものに仕上がっている。『ジキルとハイド』のヴァリエーションとして生産される多重人格もののドラマは、(多重人格である当人にとってこそ虚実は判明ではないが)鑑賞者から見れば虚実は概して判明である。ミスディレクションのために、人格の分裂をぼかした作品もあるが、ラストでは謎が解かれ、すべては判明なものとなる。情報飢餓感を煽り、話題を作り出すために謎を残す作品も最近では多いが、それでも解釈によって全体はおおむね整合的な姿を取り戻す。しかし、『ロスト・ハイウェイ』では、最後まで結局のところ、なにがどうなっていたのか、いくら解釈しても、整理することさえできないのである。同一の人格をもったものが同時間に、別の空間から呼びかけてきたり、同一人物が、全く異なる人物に変身してしまい、しかも変身した姿の彼にも、もとの彼とは別の歴史―家族や恋人、仕事先―が存在したりしているのである。情報飢餓感から、謎の解釈を追い求め、作品中に示される様々な象徴的断片から全体を組み上げようと試みると、8割方うまくいくのだが、その時点で常にその解釈と対立するような謎が生まれてしまう。ある解釈を取ると、それと矛盾するような謎が回帰してくる。常に余剰が残されるのだ。リンチの作品がネット上で常にコミュニティーを形成し、議論を展開させているのも、こういった回帰してくる謎によって、解釈が永遠に終わらないからであろう。

リンチの映画は象徴化に抗う。リンチは、<現実界>の映画監督だと言っても良いだろう。だから、私のように、観察者の位置から全てを整序し、自明な現実を再構成する探偵小説が大好きなものにとってリンチの映画はホラーなんかより全然怖いのだ。







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2008年01月18日

スタンド・アローン・コンプレックスとオートポイエーシス

 スタンド・アローン・コンプレックス(以下、SAC)は、オートポイエーシス論でいうところの「二重作動」に対応させることができそうだ。



それは、オートポイエーシス論から河本英夫が導き出した、存在に関わるパラドクスである。河本がいうには、二重作動とは、あるシステムの作動が、同時平行的に他のシステムを創発させる潜在的条件となっているという事態のことであるという。つまり、それは行為において、あるひとつのことを行うことが、同時に別のことを実行してしまっているというというパラドキシカルな事態のことなのである。



「二重作動の着想そのものは、オートポイエーシスから直接取り出されている。オートポイエーシスの提唱者マトゥラーナが使ったあの建築の隠喩である。建物を建てるさいに、職人を集め、見取り図もレイアウトもなく、しかも棟梁もなく、職人各人は当初偶然的に持ち場につく。職人相互の関係でどう振る舞うかが決められている規則があるとする。この規則にしたがって職人は行為を進める。設計図なしのこのプロセスの継続によっても家はできる。この場合職人は何を作っているのか自分で知ることなく家を建てており、しかも家が立ち上がったことに気付くことはないであろう。実際アリやハチが巣を作るさいに、事前により集まって見取り図を前に談合を行っていたというような観察報告はなく、またそんなことをしているとも思えない。プロセスを自動的に経ることが、同時に別のことを行っているというのは日常に頻繁に見られることである」。(『オートポイエーシス』21-22)



この二重作動の機制、即ち、個々の好き勝手な行為の集積が同時に予測不可能な結果を引き起こしてしまうという事態は「SAC」そのものではないか。
SACとは、『攻殻機動隊〜stand alone complex〜』シリーズにおいて提示された、定義の定まらぬ概念である。
定義は定まらぬが、ある種の現象として記述することができる。即ち、誰もがネットを介して繋がるようになった超高度情報化社会の中で、ネットに接続しない個々人が、もしくはオリジナルな存在でありたい(が、同時に他者と繋がっていたいというアンビヴァレントな感情を持った)個人の集積が引き起こす、一律的な因果関係によって規定することの出来ない複合的な現象のことであると思われる。SACにおいても、二重作動と同様、統合としてのネットから乖離した個々人が好き勝手振る舞うことが、同時に予測の出来ないソサエティを創発してしまい、同時にそのソサエティが今度は新たなエージェント(=SACを存続させるための行動を行う個人)を生産し続けてしまうのである。つまり、個々人はただ自律的に振る舞っているつもりなのに、実はそれもSACを引き起こす行動となってしまうのであり、そのことによってその個人の行動はあるソサエティの構成素(=それを構成する要素)として産出されているのである。
いわば事件そのものが、自己を維持するために「笑い男」という行為を生産しているかのような事態が、ここで生じているのである。

さらに、SACの特徴として、そのオリジナル(即ち初期条件)が不在であるということも上げられる。例えば、「笑い男事件」には、オリジナルが存在しない。そこでは、事件そのものによって「笑い男」の模倣者達が、ただひたすら生産され続けているだけであり、そのオリジナルとされている「笑い男」自体が、実は事件のプロセスそのものによって生産された虚構であったことが、明らかになる。初期条件とは異なる事態が生じ、そのプロセスによって初期条件まで仮構されてしまうのである。これも、オートポイエーシスを連想させるものだ。
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京極堂シリーズと観察者の問題:「この世に不思議なことは何もないのだよ」とはどういう意味なのか?

京極夏彦による人気小説・京極堂シリーズの主人公中善寺秋彦の決めセリフ、つまり「この世に不思議なことなど何もないのだよ」は、近代合理主義の浅薄な表明などではなく、システムの外に立つ観察者としての立場を表明するものであると解釈することができる

ありとあらゆる情報を網羅し、錯綜する因果系列を整合的なものとして編集しなおす京極堂こと中善寺は、観察者としての立場から世界の虚と実を決定しなければならない立場にいるのである。

つまり、ありとあらゆる登場人物(心的システム)の外側に立ち(即ち物語から超越する)、謎を解体し世界を論理に落とし込む者として、彼は自分を演出しなければならないのであり、その彼にとって「この世に不思議なことなど何もない」という立場は要請されなければならないものなのだ。彼にとって虚実は判明でなければならず、この世に不思議はあってはならないのである。

だがこれは、小説世界だからこそ可能な立場なのだ。中善寺は特異なキャラクターとして性格付けられており、例外的に物語(システム)の外に立つことが可能になっているのである。しかし私が思うに、こういったことは本来不可能だ。そもそも中善寺も「この世に不思議なことはない」という現実から、謎を裁断しているのであり、すべてを超越しているわけではない。だが、彼は探偵でなければならず、「唯一の真理を知っている」という役割をおわされているがため、「超越的な立場に自分が居る」という仮定をとらなければ物語を作り出すことができないのだ。故に、『絡新婦の理』では、中善寺も犯人の仕掛けた物語を作動させる歯車として、その役を演じることになるのである。

思うに、そもそもミステリにおける探偵とは、常に自分を超越した立場に置かなければならないのだろう。探偵は物語の外から、物語を眺め、すべての虚実を判断し、因果関係を確定できる立場でなければならないのだ。従って、探偵とは読者よりも、優位な立場にいるのである。物語世界に没入する読者にとって、物語は謎であり、彼は探偵による解決に至るまでは、不思議の中に投げ入れられているのだ。探偵は、その傍観者としての位置から、不思議とカオスと秩序付ける―京極堂の言う「憑物落とし」―ことによって、読者を現実に引き戻すのだ。


続き:http://fmaro.seesaa.net/article/79554318.html







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『双頭の悪魔』有栖川 有栖

 
双頭の悪魔

説明     1999

東京創元社

有栖川 有栖


傑作だ。



「逆転裁判3」のヒントにもなったミステリ。



切り離された二つの場所で、それぞれ殺人事件が発生。

その二つは、物理的にも情報的にも切り離されている。

異なる舞台で、異なる探偵達が、それぞれ推理を始める。



ところが、その二つの殺人事件は、どうにもどこかでリンクしているようだ。(その事が知れるのは、途中まで読者だけだ。二つの舞台は切り離されているので、お互いがお互いに事件のことうぃ知りようがないから)



物語が進むに従って謎が増えていくというのも、魅力的だ。



事件が起こって、謎が生じて、それに取り組んでいたら、また殺人事件が発生し、これまでの推理が全て裏返ってしまったかのように思われる。つまり、探偵が一度謎を解決したら、その推理を裏切るようなさらなる、事件が発生してしまうのだ。







そして、非常に読者に対してフェアな小説だ。



読者も謎解きが出来るように、独力で答えにたどり着けるよう、探偵に対して提示された手がかりと同じだけの手がかりが読者にも提示されている。



面白かった。おすすめなのだ。


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ゲームは悪か?:下田博次教授のオンラインゲームに関する意見

「児童心理」2008年号、「特集 ゲーム世代の子どもたち」という冊子が売ってたので、買ってきた。

そこに、群馬大学社会情報学部の教授にして、ねちずん村の村長であられる下田博次さんという人の論文が載っていて、それが変な意味で印象的だった。

タイトルは「なぜオンラインゲーム依存症になるのか



内容としては、タイトルに対する応答なのだが・・・・・。



以下、いくつか批判点をあげてみる。



まず、著者は、タイトルの問い(つまり、「なぜオンラインゲーム依存症になるのか」)に対する回答として、次の二点をあげている。



第一に、「長期間プレイさせる仕組みになってるから」

第二に、「人間関係・コミュニケーションの魅力があるから」






・・・・・・



ん?


それは、、、あたりまえ・・・・・では?



そんなことは、み〜んな、わかってると思いますが・・・・

学者に求められる見解は<その先>なのでは・・・・・。

天文学者が「地球上では、太陽は西から昇り、東に沈むように見えます!」と発表しても意味ないでしょ。




むしろ、なぜそういう仕組みを持ったゲームにはまる人間がふえているのか、その社会的・文化的要因は何なのか?そういったコミュニケーションの魅力が現実でのそれにまさるのは何故なのか?そして、その背景で何が起こっているのか?どういった構造が存在するのか?また、そういったコミュニケーションは現実でのそれと何が違うのかといった論点が欲しい。じゃなきゃ、ただゲームをなくして一時的に解決なんてことになりかねない。それどころか、諸悪の原因をゲームにして、ゲームをサクリファイスにすることで、一時的に問題を回避したと思いこむだけで終わる危険性さえある。



そもそも、オンゲーやったことあるのかなこの人
批判するのなら、どっぷりゲームをやりこむ必要があるでしょ。まさかやりもしないで、批判してるわけじゃないよね。
ゲームとかアニメとかのオタク文化を批評し、批判するなら、結果としてその人はオタクに成らざるを得ないということがある。批判するためには、その文化に精通しなければならないからだ。だから結局、オタクと変わらぬ知識や経験を持ってしまう。だが、それは批判のためには必要なことだ。対象に内在しようともせず、ただ外から眺めて、偉そうなこと言ってるだけの人間の意見は当てにならない。映画を観ずに、あれこれ批判するようなものだ。まあだから、この方も、有名どころのオンラインゲームは、どっぷりとプレイしているはずなのだが・・・・・


・・・・・・



この論文は、どちらかというと、ゲーム悪論へ傾いているようだ。どうにも、ゲーム=悪という認識が大前提らいし。ネトゲ廃人になるだの、ゲームのやりすぎで過労死だの、オンゲー依存で自殺者→訴訟だの、ゲームにハマリ現実生活での問題を放っておくようになるだの、ゲーム中毒を精神障害として加える動きがあるだの、大学生がゲームサイトを通じて知り合った女子小学生をレイプしただの、オンラインゲーム業者には「最初は無料」と煽りつつ知らぬ間に課金する悪質なサイトがあるだの・・・

マイナス面だけ書かれても一部の、ゲーム悪論のイデオロギーに貢献するだけで、何の益にもならないような。なんで、ゲームを悪者にしたがるのかと。



まあ、ぼくはゲームが人に悪影響を与えると言うことは、あり得ることだと思うたしかに。
小説や映画が、人に影響を与えるように、ゲームにも人に影響を与える力があると思う。



しかし、それは同時に良い影響を与えるという事でもあると思う。なぜ、それを議論しないのか?
ポジティブ、ネガティブ両面を照らしながら考えなければ、物事の本質は見えてこないのではないか?
プラスとマイナスは表裏一体であり、片方だけ論じても物事の半分も見えないはずだ。

また、ぼくもオンラインゲーム中毒は大きな問題だと思うし、解決案があるなら練るべきだと思うけど、そのために、オンゲーは悪い、悪だとののしるのでは、何の解決にもならないと思う。そんなこと、素人でもできるのだ。専門家なら、もっと根本的な要因を明らかにして練ってほしい。例えば、現代の病理を形成しているような、もっと大きな社会的要因や、思想的要因、をメタレベルで批判しないと意味ないと思います。大学で膨大な時間を研究に費やすことが出来るんだから、いくらでも研究して考察することはできるでしょう?




あと、この論文には根拠・ソースの不明瞭な「意見」が、ソースがあるかのように提示されていて、疑問にに感じた。



例えば、

ゲーム中毒者には、ネットのブログや掲示板で情報を発信しまくる傾向があり、そういう人は、しばしば普段口にしたことのない暴言を吐いたり、男なのに女になりすましたり、あたらしい人格を作り出すことが「多い」
と書かれているが、それは、ゲーム中毒者に限った話しではなく、ネットの利用者一般にいえるのでは?

で、ゲーム中毒者には本当にネットで暴言をよく吐く傾向があるの?
ゲーム中毒である事とネットで暴言を吐く事との間に因果関係はあるの?
そもそも、どうやって統計を取ったのでしょうか?
ソースは?
あなたがネットサーフィンしてて、感じたことじゃないんですか?


「ソースは俺」ですか?





さらに、そういう暴言を吐く人は、時間と体力を消費しているだけではなく、人格障害も起こしている危険性がきわめてたかいとされると書かれている。

「高いとされる」って引用のように書いてるけど、いったいだれに「高いとされている」の?

どこの学者が言ってるの?

ソースは?

これも「ソースは俺」ですか?



しかも、時間と体力を浪費っていってますが、「浪費」と言い切る根拠はなんですか?
ゲームからは何も得るものが無いってことですか?

裏付けはしたのですか?

あなたの偏見では?

あなたの偏見ではないという証拠はあるんですか?


てか、ゲームは浪費だっていうけど、この論文じゃあ、ぼくが何も得るものがなく、体力と時間と金の浪費になっちゃいますよ。




さらに、

だからゲーム依存傾向が強まる人は精神的に抑鬱状態にある人に多いなどという意見が出てくるが、」とも書かれているが、


だからどこの誰がいってるんですか?


ソースは?


これも「ソースは俺」ですか?


(それとも『NHKにようこそ!』でも読んだのでしょうか。ボソ)





極めつけは、この人の論文には、最後に参考文献リストが載ってない






全部、「ソースは俺」すか?






唯一引用もとを示している記事といったら、Wikipediaだけですよ。

授業のレポートを書く大学一年生じゃないんだから。。

引用もとや参考文献を示すのは論文を書く上での最低限のルール、というか、学者としての作法でしょう?某新聞社のジャーナリストじゃないんだから(って、この人もともと、ジャーナリストなのか・・)。


これじゃあ、論文じゃなくて感想文ですよ。


根拠を示して、論理的に論じないと。

現代社会への不満を垂れ流す飲み屋のオヤジじゃねえんだから。


しかし、ソースのない情報でも一応、大学教授の言ったことだからと、権威を持って誰かに伝わっていくんだよね。しかも、これでも一応は業績として残るんだよねえ。。


困ったものだ。



【追記】
ちなみにこの人、警視庁が「インターネットや雑誌、ゲームなどの仮想現実(バーチャル)社会を通じて、 子供が性や暴力に関する情報に簡単に接し悪影響を受けている可能性」があるとして設立した「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」なるものの構成委員らしい。

http://www.npa.go.jp/safetylife/syonen29/Virtual.htm
この委員会、一人を除いて、ほとんどがゲームやアニメの規制賛成派らしい。


あいかわらず、ゲームは嫌われ者のようです(´;ω;`)ブワッ。







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2008年01月14日

<現実界>とは。ジジェク「自由の強制された選択」を読んで。

比喩的に言えば、現実界とは「なかった過去を現在から見たときに、そこに見出される象徴化できぬ残余のことである」。誤解を恐れずに言えば、前世とか、他者とか、仮想現実ではない真の現実とか。象徴秩序の外側とか。デイヴィッド・リンチの描くような原‐世界、、つまりリンチの映画は、どうやっても因果系列に沿って物語化できないが、その時に想定される、全体の整った「物語」の地位が、現実界ではないか。

ジジェクの自由に関する議論は、現実界を理解するうえで役立つだろう(つか、結局よくわからんのだが)。

つまり、、、、



ジジェクは、一見、主体の自由な意思によって決断される行為のように思われる「選択」に潜む、逆説的な性質を明らかにしている。
ジジェクによれば、自由の地位そのものが<現実界>的なのだという。つまり、「あなたは自由な意思をもって行動することができる。しかし、実際は自由ではない。」ということだ。この実際はなされなかった自由選択が、<現実界>である。
ジジェク=ラカンによる自由意志の不可能性は、近代哲学やポスト構造主義者たちが言うようなそれではない。ラカンは自由の不可能性を、構造にも、権力にも、環境にも還元しない。あくまで自由選択という行為を、<現実界>的な行為だと捉える。
私達は選択を終えた後、その遂行を自分の自由意志にもとづくものだと思う。しかし、我々のその認識は誤認にもとづいている。つまり、実際には選択する立場に彼は無かったのにも関わらず、すでに選択したかのように扱われるのである。選択とは常に・既になされてしまっている事である。ある時点で、「私はすでに (自由に)選択した」としか主体は言う事が出来ないのだ。     
選択を迫られている状況で周りを見渡し、どれを選択するか自分に問い掛けても、上手くいかないことは明白だという。何故なら、彼は既に自分に与えられているものを選択する事を強制されているからだ(どうも説得力がここんところは無い気がする)。彼はあらゆる対象から、自分の意思で自由に何かを選択したわけではないのだ。この事は恋愛対象の選択や、悪―犯罪や反道徳的行為など―を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。恋愛相手を主体は、自分の意思で自由に選択したと思っている。しかし、実際はどうだろうか。本当に、自分で自由にその相手を選んで彼女を恋人にしたのか。いや、我々は概して、恋におちる事で恋人関係を取り結ぶ。その相手の選択は、私がよく周りの女を見渡して、その中から自由に選び取って恋におちたわけではない(そういうケースもまれにあるかも)。既に恋におちていて、それから、「私は既に自由に彼女を選んだのだ」と、遡及的に過去を解釈するのだ。彼女以外の選択をしたかもしれないにも関わらず彼女を選んだのだと、私は過去に実際にはなかった行為を想定して、それとの関係で自分の選択を自由意志にもとづいてなされたものだと解釈する。犯罪においても<現実界>は回帰してくる。我々が犯罪者を知ったとき、彼の行為が自由意志にもとづいてなされた事、即ち彼には悪をした責任が課される事を、期待するし、実社会の中では犯罪者の罪は環境に還元されず彼の自由意志に求められ、責任を問われる。つまり、彼はそのように行動しない可能性があったのにも関わらず、悪を選択して遂行したのだと我々は思う。
しかしその反面、我々は彼の悪が、彼の本性にもとづく―強制的な―ものだとも思いがちである。「あの犯罪者は幼児期の虐待で逸脱者になった」「彼の経済的逼迫状況が彼を犯罪に駆り立てた」「社会の構造が彼を犯罪者に仕立て上げたのだ」等等。。我々はこのように自由と選択に対してアンビヴァレントな態度を持っている。
カントは『実践理性批判』で悪の行為者に次のように述べているという。即ち、悪の行為者は、彼の自由意志にしたがってその行為を選択したつもりでいるが、実はその行為は、彼に形成されたア・プリオリな悪のカテゴリーが彼に到来する外的要素を、選択の時点で、綜合した結果としてあるのであり、彼の行為はその先験的カテゴリーを通して常に決定されると。このカントによる悪の行為に対する認識は、ラカンの<現実界>を先取りしているとジジェクは言う。カントにとっても、自由選択はある種の強制を伴わざるを得ないものでありながら、自由なのである。そしてその自由選択の地位は<現実界>的なのである。彼のその行為の反実仮想を想定する事は、彼にとって不可能だった選択を空想する事であり、その空想の中で彼がなしたかもしれない『自由選択による悪ならざる行為』は、実際にはなされなかった、不可能な行為であり、<現実界>的である。
ある一人の基本的性格―善人であるとか悪人であるとか―は、最初の・永遠の・永遠に過去の・先見的・超越的な選択の結果である。それは既になされた選択である。ただし時間的・日常的にはまったく起きなかった事である。それは遡及的に想定されるだけだ。彼の基本的性格が形成されたことの責任は彼にあると。彼のそういった基本的性格―善人であるとか悪人であるとか―は、選択の際に、意識的レヴェルに先立つ無意識的なレヴェルの選択を余儀なくさせる。つまり、彼は行為の選択の項目を無条件に制限されるのだ。それにも関わらず、善人も悪人も自分がある選択を強制されたとは思えず、自由に選択したと思う。だが、既になされてしまった選択に付随する自由選択という思想は<現実界>なのである。
ラカンの言う<現実界>なるものは、行為の選択のレヴェルにおいては、現実には選択されなかったが、現在の結果・現状を説明する為には、事後的にどうしても前提としなければならず、構成しなければならないものである。その想定を失ってしまったら、我々は一切の自由選択を失ってしまうのだ。
(参考:スラヴォイ・ジジェク〔著〕、鈴木晶〔訳〕、『イデオロギーの崇高な対象』、河出書房新社、2000、251-257頁)
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2008年01月11日

コミック『魍魎の匣』

のコミックが、アマゾンから届いたので、パラパラと読んだ。

あの分厚い本がよく画けてると思った。絵柄も原作の雰囲気が出せてて。
画力もあるし。

とくに、頼子に関する描写は女性ならではのリアリティー。
少女が自然に身につけた天然の狡猾さというか、無意識に行ってしまう擬態?のようなものの、表現がすごいうまい。
特に木場との対峙が面白い。木場は女が苦手そうにみえて、頼子が身につけた擬態を、意図せぬうちに見抜いてしまっている。他の人間は頼子の擬態― 泣き落とし、か弱さ演出などの擬態に簡単にひっかかってしまっているが、木場だけはその擬態にリアリティーを感じながらも、「映画のセリフを聞いているような違和感」を感じている。

各キャラもわりとイメージ通り。京極堂がちょっと美形過ぎる気もするが。
京極は、最後にワンシーン出てくるだけ。
続きは第二巻。

ル=ガルーのコミックも読みたいなあ。



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